プロローグ
少年
最初に届いたのは音だった。
きぃきぃと絶え間なく響く、甲高い、音。それはとても近くから聞こえてきているようだった。
その音に、自分を包んでいた闇が揺らいだ。そのまま惹かれるように目を開く。
ぼんやりとした視界に映ったものが何かは分からなかった。数度瞬きを繰り返すと、視界はだんだんとはっきりして、そのうちに明確な像を結ぶようになったが、やはり分からなかった。薄暗いせいかもしれない。
仰向けになっているみたいだから、見えているのは普段なら頭上…空か、室内なら天井ということになる。今は後者のようだった。ただ、やけに低い天井に思えた。
キィキィ鳴り続ける音に、それが聞こえてくる方へと顔を横に向けてみる。それは生き物の鳴き声だったらしい。すぐそこに…今までは耳元だったということになるだろう、本当にすぐそこに、手の平サイズの白くて丸い、つぶらな瞳の生物がいた。それは目が合うととても嬉しそうに一声鳴いてすり寄ってきたが、自分はその生物が何なのか分からなかった。
「―――――」
体を起こしてあたりを見回すが、やはりどこか分からない。ただそこはとても狭い場所だった。自分一人がやっと動けるくらいの空間しかない。体を起こすために床についた手は、砂の手触りを伝えていた。地面だ。
「―――――?」
こんなところ、自分は知らない。
さらに見回すと、空間に一箇所、光が漏れてきている場所があった。出口らしい。
低い天井に頭をぶつけないように這って出口をくぐる。後ろから白くてもふもふした謎の生物も、ぴょんぴょんと跳ねながらついて来た。
狭い空間から出てみると、そこは野外だった。視界いっぱいに大木が立ち並び、空を覆う葉の隙間から柔らかい光が零れてきている。足元は湿ったような土で、ところどころ背の低い草が生い茂っていた。
「…森…?」
どう見てもそこは森だった。背後を振り返るとひときわ大きな木がそびえている。その根元に人が一人入れるくらいの大きなうろがあった。自分はどうやらその中にいたらしい。
「?」
どうしてそんな場所にいたのだろう。
首を傾げてみるが、混乱しているのか何も思い出せない。
「…そのまえに…ここはどこ…?」
森だということには間違いなさそうだったが、どこの森か分からなかった。
近くに、こんな森があっただろうか。
そう考えて、ふと眉をひそめる。
近く、とは、どこの近くのことだろう。
「―――――え?」
自分はもともとどこにいたのだろう。
「―――――――――あれ?」
無意識に頭を抱えた。
帰るべき場所があったはずなのに。いつもそこにいたはずなのに。
「……どこ?」
自分のいた場所が、思い出せない。
どんな所で何があって、どんな人たちがいたのかも、何一つ。
「…待って」
背筋が急激に冷えた。心臓の辺りが握りつぶされそうに苦しくなる。
足元が、崩れ落ちる感覚。
「ちょっと待って!」
思わず叫んだ。誰に聞かせるわけでもない。ただ、そうしないと崩れそうだったのだ。世界が。
「ええ…と」
白くて丸い生物が見上げてきていたが、それはもはや視界に映っていなかった。いや、映ってはいるが、意味を成さなかった。その場のどんな景色も。
頭の中がぐちゃぐちゃする。なぜかとても寒い気がした。
「…落ち着いて…」
そういう時は、確実なことから一つずつ。
目を閉じて、ゆっくり呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせる。
感覚が正常な世界を伝え始めてから、必要な情報を探す。
「ええと、まず僕は…」
どこから来たのか。どうしてここにいるのか。
しばらくしてから、目を開け…愕然とした。
「…ぼく…は………?」
そんな情報が…記憶がない。
いや、そのことだけではなく、何も思いだせない。
「…ぼくは……だれ………?」
生まれ育った場所のみならず、自分の名前すら分からない。
自分が誰か。そんなカンタンなことも。
ひざの力が抜けて、体が地面に落ちた。
知っている。これは土で…これは石で…地面。それからあれは木。空。光。
それでも、自分が誰か分からない。
「……だれ?」
キィキィと鳴きながら、白くて丸い、大きな綿毛のような物体が膝に乗ってきた。そのつぶらな丸い瞳は、何故だか自分のことを心配しているように見えた。
実際にそうなのかもしれない。でも自分はその生物のことも、知らない。
「…君は、だれ?」
途端、その謎の生物は、自分の周りをぴょんぴょん飛び跳ねて回った。
しかしやはり、それが何かは分からなかった。
だがその様子に漠然と理解する。表情らしい表情もない生物だったが、何故かとても心配そうに、哀しそうに見えたから。
「…君は、僕を知ってるんだね?」
確認のつもりで言うと、それはぴょんと一つ高く飛び跳ねた。キィと甲高い声をあげる。
とても、胸が痛かった。
「そっか…でも僕は君を知らない…ごめんね」
とても好きでいてくれているらしいことは分かる。だからこそ、とても申し訳なかった。
自分もきっと大好きだったのに。もふもふしていて可愛いし。
でも、知らなかった。思いだせない。付け足すように呟いた。
「君が誰かも、ここがどこかも…僕が誰かも…知らない…何も」
口に出した瞬間、唐突に理解した。
自分は何一つ知らない。分からない。今までどこに住んでいたのか何をしていたのか誰と一緒だったのか自分が何なのか。何一つ。
「何で…?」
背筋が凍えた。胸のあたりが空っぽになった感じがする。急に寒くなって震える体に腕を回した。世界が不鮮明で遠くなる。全ての色が流れ落ちて無機質になり、空気の流れが止まる。そしてひどく脆く…崩れ落ちる。
空間が、世界が…全てが、壊れる。
「キィ――――――ッ!!」
「わ―――っ!?」
至近距離からのつんざくような一際甲高い鳴き声に思わず耳を押さえた。
「も〜、何なの?耳痛いって!!」
いつの間にか右肩に乗っていた巨大な綿毛のような生物に涙目で訴えると、それはまた膝の上に飛び降りた。つぶらな瞳でじぃっと見上げてくる。
まだ耳鳴りがする右耳に眉をしかめ、それを問い詰めようとして、ふと気付く。
世界はそこにあった。色鮮やかに。留まることなく、ゆるやかに。
どこも壊れてなどいない。
「―――――――――。」
では何が壊れようとしたのか。
いけないと思った。このままでは駄目だと。
何かが、どこかが…危険を知らせていた。漠然と感じる。
――コノママダトコワレテシマウ――
…何が?
「―――――――。」
黙りこんだ少年に、白くて丸い生物はその視界に入るように動いた。つぶらな瞳に、少年の青い瞳が映る。しかしそれはガラス玉のように、景色を反射しているだけだった。
静かに座る少年の長い髪を風が揺らした。
同時に時が動き出す。少年はにっこりと笑った。膝の上の白い生物を抱き上げる。
「うさぎにしては小さいし、耳がないなぁ。ねずみにしては大きくてもふもふ〜」
ひどく澄んだ青い目と、つぶらな瞳が合う。
「何の動物なのかな?でももふもふしててかわいいね」
くすくすと嬉しそうに笑う少年に、小動物は一瞬その毛を総毛立たせた。傍目には分からない少年の変化を感じ取ったのかもしれない。しかしその小動物はぴょんと少年の肩に乗った。頬に擦り寄る。――それでも一緒だというように。守るように、ぴったりと。
くすぐったそうに笑いながら、少年は立ち上がった。
「ねぇ、もふもふって呼んでいい?もふもふしてるから!」
壊れようとしたのは、世界ではなく、少年の方。
そしてそれを感じ取った少年は、自らの崩壊を招くもの全てに鍵をかけた。
―――人として、失ってはならないものに。
少年はくすくす笑いながら、軽いステップで歩き出す。ただ、風の向かう方へ。